織田信長は安土城を築くにあたって(1576年築城、天守閣の完成は1579年、1582年焼失)、その瓦の製作を明(みん/現在の中国)の人、一観(いっかん)に命じました。焼き上げた軒瓦の前面には蒔絵の技術を応用して金箔が貼られていたといいますから、さぞかし華麗なものだったでしょう。
瓦研究家として多くの業績を残した駒井鋼之助先生(1903〜1988年)によれば、燻(いぶ)し瓦の製法がわが国に伝えられたのはこのときで、それ以前の瓦は色が不揃いだったのが、どの瓦も同じ黒一色に焼かれるようになったのだそうです。原理的には現在の燻し瓦もこの時代のものと同じ製法で造られています。なお、現在の燻し瓦は、技術の発達により表面が磨いたようになめらかになっているので、色は銀黒色になっています。燻し瓦のことを黒瓦ともいうのは、初期の燻し瓦が黒かったことの名残のようです。
一観以降の瓦の大きな変化には、もう一つ、平瓦(ひらがわら)から布目が消えたことがあげられます。従来は瓦の素地を瓦型から剥がすときのために間に麻布などを当てていたのですが、雲母粉(きらこ)や粘土粉を型にまぶしておくことによって、簡単に剥がせる工夫がされたのです。
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