明暦3年(1657)、俗に振袖火事と呼ばれる大火が江戸の町を焼き尽くし、死傷者を10万人も出し、江戸城も一部を除いて焼け落ちたといいます。当時の町人の家は草葺きか板葺きで、しかも密集していたので、火事が出れば大火となることが多かったのです。
このあと幕府は驚くべき命令を出しました。武家屋敷には既に瓦屋根が普及していたのに、以後、大名であっても土蔵以外の建物を瓦葺きにすることを禁じたのです。消火の際に瓦が落ちて危険だというのが表向きの理由でした。
この禁令は約60年続き、8大将軍徳川吉宗(在位1716〜1751年)のとき、「火災防止のために瓦葺きを許可して欲しい」という目安箱の投書を取り入れ、やっと禁令が解かれました。そればかりか、これを機に防火対策のために江戸の町屋の瓦屋根化を奨励するようになりました。この政策の実施の任にあたったのは、江戸南町奉行の大岡越前守忠相(ただすけ)でした。
彼のやり方は決して高圧的なものではなく、町人に対してむしろ低姿勢でした。町名主に町屋を瓦葺きにしてはどうかと諮問したのです。ところが町名主たちは「瓦葺きにするためには柱から取換えなければならず、経済的に不可能」と断りました。大岡忠相はあきらめずに、「瓦葺きが無理なら塗屋(ぬりや)にしてはどうか」と妥協案を出しましたが、名主たちは「原料の土や石灰の入手がむずかしい」と反対。さらなる妥協案も出しましたが、総論賛成、各論反対で決着がつきません。
それでも忠相はめげずに説得を続け、助成措置を講ずるなどして江戸の町を少しずつ瓦葺きに変えていったのです。
三州の瓦は江戸へも出荷されていたと考えられますから、三州の瓦産業にとって大岡忠相は恩人ということになります。
|